日本刀「鬼丸国綱」歴史は深く実在する伝説の逸品。所持者は天皇家?

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みなさん、こんにちは!

日本刀の中には名刀と言われる数多くの刀が存在します。
現存するもの、そうでないもの、逸話の中から生まれたもの、何が正しくて、何が正しくないのか、詳細は不明ですが、「見てみたい」、「触ってみたい」、「レプリカでいいから欲しい」と思った事はありませんか?

日本刀を所持するには、許可が必要(許可を持っていないと銃刀法違反です)ですが、レプリカであれば許可はいりません。
でも、持つならリアルさが欲しい、実物と同じ長さや輝きが欲しい、などこだわりが出てしまいます。
※こだわりを追求していくと、ちょっとコスプレアイテムっぽくなりますが、私の話しは大真面目です。

ここでは、刀剣ワールドさんからの内容を参考に、私なりの解釈「鬼丸国綱」の歴史をまとめています。
もっと詳しく知りたいという方は刀剣ワールドさんのHPをご覧ください。
https://www.touken-world.jp/search-noted-sword/tengagoken/54140/

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〇天下五剣(てんがごけん)の1つとされる

天下五剣とは、過去歴史上の日本刀の中でも最高傑作とされる5本の刀のことを表します。
もう、国宝ですね。
これはさすがに個人で買えるレベルではありません。
最高傑作の5本とは、以下の5本を表します。

今回ご紹介する「鬼丸国綱」(おにまるくにつな)もそのひとつになります。

1、「童子切安綱」(どうじぎりやすつな)
2、「三日月宗近」(みかづきむねちか)
3、「鬼丸国綱」(おにまるくにつな)
4、「大典太光世」(おおでんたみつよ)
5、「数珠丸恒次」(じゅずまるつねつぐ)

この5本の刀は時代も別々で、だれが「天下五剣」と名付けたのか、分かっていません。
明治時代以降になってから、刀剣関連の書物に記載が現れ始めたようです。
誰が評価して、この5本を選んだのか、なぜ5本だったのか、その道のプロが目利きして生まれたのか、いまだに不思議です。

〇作者は「粟田口国綱」(あわたぐちくにつな)鎌倉時代(生没年不詳)

天下五剣の中の1つとされる、「鬼丸国綱」(おにまるくにつな)。
造られたのは、鎌倉時代の刀工「粟田口国綱」(あわたぐちくにつな)の作品。
国綱(くにつな)は、鎌倉時代初期に刀工「粟田口国家」(あわたぐちくにいえ)の末っ子として生まれます。本名は「林藤六郎」(りんどうろくろう)。
「粟田口」というのは「粟田口派」という刀工集団の名称から名づけられています。

国綱の鎌倉初期の時代、後鳥羽上皇が朝廷で権限を持っていました。
その、後鳥羽上皇は刀にとても精通していて、名のある刀工を全国から京都に呼び寄せては、月ごとに刀を造らせるという制度があったほどです。
その頃に国綱も京に刀鍛冶として呼ばれて刀を作っていました。
国綱は、その腕前を認められて鎌倉幕府にも呼ばれるほどでした。
その頃から、国綱と後鳥羽上皇との関係はとても深く、後鳥羽上皇が「承久の乱」で負けて島根県の隠岐諸島に追放される際も、一緒に隠岐諸島へついて行ったほどでした。

その当時の鎌倉幕府は北条家が権力を持っていたのですが(源氏が暗殺されたため)、「辺境の島にいるには惜しい」と何度も北条氏から誘いがあったが、何度も断ったと言われています。
その後、後鳥羽上皇が亡くなり、1周忌を迎えたころ、ようやく鎌倉幕府からの誘いを受けるそうです。
最初に誘いを受けてから20年間断り続け「後鳥羽上皇が生きている間はお仕えする」と決めた忠義の厚い人だったとそうです。


〇寸法・形・切れ味

「鬼丸国綱」(おにまるくにつな)の刀身は、刃長二尺五寸八分五厘(78.2cm)、反り3.1cm。
鬼丸国綱の反りは、日本刀の中でも強さがすごく、反りから切先に向かうにつれて、細くなっていく刃幅が、刀の理想的な形と言われています。

「鬼丸国綱」(おにまるくにつな)の逸話と所持した人々

1、鬼丸という名がついた由来
鎌倉幕府初期、北条時政が夢の中に現れる鬼に苦しめられて、衰弱していました。
そんな時、「鬼丸国綱」と名乗る老人が夢の中に現れて「汚れた者の手に握られてしまったので、錆びて抜けなくなってしまった。錆を拭って欲しい。そうすれば鬼は切って見せよう。」とお願いされてそうです。
北条時政は、夢で老人に言われた通り、自分の持っていた「国綱」という刀工が打った刀の錆を落としたそうです。
そして、抜き身の状態で寝室の柱に立てかけていたら、その太刀が倒れ、その拍子に近くにあった火鉢の足を切り落としてしまいました。
北条時政が切り落とされた火鉢の足をみてみると、夢に出てくる鬼の顔とそっくりだったそうです。
それ以降、鬼の悪夢から解放され、北条時政は回復していきます。
鬼を退治してくれた「国綱」という刀は、北条時政によって「鬼丸」と名付けられて北条家の宝刀となりました。

2、鬼丸国綱と鬼切安綱
北条家の宝刀だった鬼丸国綱は、1331年に勃発した「元弘の乱」(げんこうのらん)で北条家が滅ぶと、戦利品として新田義貞が持ち帰るため、所有者が新田家となります。
この新田義貞は、鬼丸国綱以外にも「鬼切安綱」という日本刀も持っていました。
鬼切安綱は源氏の宝刀です。新田義貞は、鬼丸国綱と鬼切安綱の宝刀を2つ所持し、戦では飛来する矢を宝刀で次々と薙ぎ払ったと言われています。

3、なぜか短命な鬼丸国綱の所有者たち
北条家において、鬼丸国綱の最後の所持者、鎌倉幕府第14代執権「北条高時」は、後醍醐天皇からの命を受け、新田義貞と戦います。
しかし北条高時は自刃に追いこまれます。
死の直前、北条高時は家宝の鬼丸国綱を敵の手に渡らないように、信濃へ運ぶように手配しますが、鬼丸国綱は受け取った武将が新田義貞に討ち取られ、北条家の手を離れてしまい、新田義貞が所有者となるのです。
北条高時(享年31歳)」
新たな所有者となった新田義貞は、5年後、戦に負けて自刃するという運命をたどります。そして鬼丸国綱は、新田義貞の首と共に足利尊氏の元へと送られていきます。
足利家に渡り、室町幕府は15代続きますが、50歳以上生きた人は4人しかいません。
そこから、鬼丸国綱は、織田信長、豊臣秀吉と渡っていきます。
豊臣秀吉は無類の刀剣好きでありましたが、鬼丸国綱と童子切安綱は手元に置きたがらず、本阿弥家に預けてしまいます。不吉な予感を感じたのでしょう。
豊臣家が滅びると、豊臣家の刀剣はすべて徳川家に移ります。
しかし、徳川家康は北条家、足利家と滅亡した家を渡ってきた鬼丸国綱をそのまま本阿弥家にあずけたままにしたそうです。
あるとき、後水尾天皇に皇太子が誕生した際、徳川家はお祝いとして鬼丸国綱を献上します。
しかし、皇太子は若くして死去。鬼丸国綱は再び本阿弥家に戻されてしまいます。
その後、明治に入り、本阿弥家で刀を管理することが難しくなります。そこから鬼丸国綱は宮内省に引き取られて明治天皇に献上されます。こうして鬼丸国綱は皇室の私有財産(御物)となり、現在に至ります。

〇まとめ

いかがでしたでしょうか。

天下五剣の中でも、いわく付きの日本刀とされる「鬼丸国綱」。
伝説の名刀ではありますが、歴史的偉人の手を渡り、多くの逸話も残されています。

今回は、私なりの解釈でまとめてみました。
詳細をもっと詳しく知りたいという方は刀剣ワールドさんのHPをご覧ください。
https://www.touken-world.jp/search-noted-sword/tengagoken/54140/

現在は天皇家の私有財産として存在しているため、なかなか見れる機会がありません。
そんな「鬼丸国綱」ですが、実在している天下五剣のひとつです。
もし、ご開帳されるときは是非見て見たい一品です。


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